そのパターンに慣れた今、「デマでした」の前に「デマじゃないの?」の流れさえもやってくる。
江頭2:50さんがトラックを運転して被災地に行ったという話など、「デマじゃなかったんだ。東スポに出てる」という平常時なら信じられないような根拠さえ提示される。
「デマが横行」の次には、流量の大きかった情報の「デマや否や」を検証することが、圧力としてTwitter利用者の上にのしかかっているかのようだ。
ある情報が相当量で流通した後やってくる「○○はデマ!」の大きな流れを見ていて「パクリ」を指摘する大きな流れ(これも主にTwitterだが)を見たときの感じと似ていると思った。
以前に「あるものがパクリであると判明したとき、人はなぜこんなにも一生懸命告発するのだろうか」と思い、それでblogを書こうとしたがうまくまとまらなくて断念したことがある。
「ある曲とある曲が似ている」「ある写真の構図が他の作品と酷似している」「賞をとった作品が2chのコピぺだった」などなど。どこかで公表されている作品が、他の何かの借用だった場合、私が見るに、わりといつも冷静な態度をとっている人でも、必死にその事実を皆に広めようとすることがある。
確かに、オリジナルのフリをしてオリジナルではないこと、本来ならば賞賛されるのはまねをされたオリジナルの方なのに、それが忘れられること。それは許すべきことではない。だが、まねした方でもされた方でもないならば、必ずしもまわりが騒ぐことではないとも言える。
にもかかわらず、「パクリ」は、多くの傍観者に「許せない、放っておけない」という正義感を呼び起こすようで、「パクった方」というのはかなり叩かれることになる。それは、その「パクった方」が金銭的な見返りも社会的賞賛も特に受けていない場合でも同様だ。
「○○はデマ」を広めようとする流れのなかにも「許せない、放っておけない」正義感が見える。デマの場合は、自分がリツイートで拡散に手を貸してしまったから、デマであればそれを明らかにする責任も強いからだろうとは思う。その点は少し違うが、デマであったとしても誰も得も損もしていないのではないか(デマではなかったらしいが上述の江頭さんの話はそんなところ)というものでも「デマは許せない」という空気はある。
パクリを告発する心境とデマを告発する心境が似ているのなら、その共通点は「人が騙されている状態をそのままにできない」ということだろうか。ウソがまかり通ることは、損得なしに、許せない感情がわくものなのだろう。まだ騙されていない人に向けても、こんな風に騙している人がいます、と教えてウソの逃げ場をなくそうとする。
「パクリ」には、ものを創造する人やその行為自体への敬意がプラスされてパワーになっているだろうし、「デマの検証」には上にも書いた正しい情報を流そうとする責任感がプラスされてパワーになるだろう。
だから、完全に類似の現象と言うつもりはないが、根底には「ウソを許さない」「騙されている人がいることを放置しない」思いが共通して流れているように思う。