2006年11月28日

加藤典洋さんに……

Amazonから届いた川上弘美『真鶴』を、昨夜3分の2くらい読んで、
今夜残りを読もうと思っていた。
ら、
今日の朝日新聞の文芸時評で加藤典洋氏が、
この本の「最後のシーン」を引用してほめていた。

いわゆるストーリーを気にする類の小説ではないし、
だいたい、今読んでる途中の本が取り上げられてたら「ネタバレ」があるかもしれないと、
警戒しておけ、ていうことでもある。から、別に怒ってるわけではないんだが、
一応、それなりに、どうなるのかな? とドキドキしながら読んでたんだけどなあ。

文芸時評に取り上げられる作品が既読とか、読んでる最中なんてホットなこと、
めったにないから、取り上げられてたら「おっ」っと、
つい見ちゃうじゃない? つい読んじゃうじゃない?

批評する人は、当然作品を最後まで読んでいて、その結末も含めて評する、
そうじゃなきゃ、フェアな批評にならない。
だけど、批評家と、批評を読む人は同じ情報を共有しているわけではないから、
読むことの楽しみを増やすために働いている(そうだよね)はずの批評家が、
読者の楽しみを減らすことだってある。難しいハナシだな。

私は週1でメルマガを出して、映画についてあーだ、こーだ、と
言ってるわけだけれど、結末は書かない。
私の場合は「批評」してるんじゃなくて「紹介」してるんだし、
作品をまだ観てない人がうっかり読んじゃっても、たぶん大丈夫。
だけど、結末も含めて何か言えるんなら、あーー、もっと面白いこと
いろいろ書けるのになあー、と思うこともしばしば。
結末も含めて語らないと、どうにも面白さが伝わらないな、というときもある。

映画や、小説でもエンタテインメントの部類に入るものの場合、
人はこういう「ネタバレ」を気にする。そういう配慮が当然だと思われる。
でも、小説でも純文学の部類に入るときは、あんまり気にしない気がする。
考えた末に、物語の流れや結末を批評の上で書いてしまってもしょうがない、
という決定をしてるんじゃなくて、ストーリーを追ったりするのは、
一段低次元のことだから、別に気にしなくていい、と
最初から逡巡ないような気がする。
私のイメージなので、勘違いかもしれないけれど。

もちろんストーリー以外にも楽しむ要素はたんとある。
『真鶴』も、あらすじを全部知っていたって、私は読むと思う。

細部を楽しんだりすることは、二度目に読むときも、
三度目に読むときもできる。だけど、どんなお話なのか知らなくって、
期待しながらページをめくっていくのは、いっちばん最初の、そのときしかない。
一度知ってしまった人は、戻りたくても、まっさらな読者には絶対に戻れない。

先に何があるのかわからないわくわく感を、
あまり重視していない文芸関係者が多くいるとしたら
(念のため、これは別に、加藤氏や朝日新聞を批判しているんじゃない)
文芸界の未来は暗いのじゃないかなあ。


これに脱力せずに、今夜読了して、文芸時評の方も、もちっと、ゆっくり読もう。
何しろ、こんなホットに読める文芸時評なんてめったに出会えないだろうから。
posted by chiyo at 23:44| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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