「ふつうにおいしい」
「ふつうにかわいい」
などの言い方が「ふつうなの? おいしいの? どっちなの?」という反応を生むらしい。
私はこういう言い方が登場して流布するうちに、特に気にならずに見聞きし、
オフィシャルな場面では使わないが、カジュアルな場所・相手には、ときに使っていたと思う。
だから、この「ふつうに」がわからない、という意見を聞いて、
「ああ、なるほど、言われてみれば確かに『ふつう』の用法じゃないよね」と思う。
で、ちょっと考えてみる。
この「ふつう」の使い方って何だろう。
私が思うに、この使い方は、
少し前に注目された「全然おいしい」や「全然かわいい」のアレンジだ。
「全然なのに後に打ち消しがこない、間違っている」
というのがこの表現に対する批判だったと思う。
もちろん公の場面でこの表現を使ったら間違いには違いない。
だが、この表現では「全然」の要素をまったく使っていないのではなくて、
「全然」を使うが故に、言外に打ち消しの要素が入っている。
「全然」は打ち消しとともに使うものだから、打ち消しの意味を込めた言い方なのだ。
たとえば、誰かが料理を作って、
「料理は上手じゃないからおいしくないかも」と
いいながら出したときの感想として「全然おいしい」。
つまり、「そんなことないよ、料理下手じゃないよ、おいしいよ」という意味。
他には、食べたことのない物で、
恐る恐る「まずいかな、食べられるかな」と思いながら口にしたら、
「そんなことない、おいしい!」の意で「全然おいしい」。
この言い方が世の中に広まるにつれて、
その傾向はうすれて単なる強調の言葉のようになっていった面もあるが、
そもそも「全然おいしい」「全然かわいい」といった表現には、
前提として打ち消しの要素があった、と私は考えている。
こういう「全然」に替わって、登場してきたのが「ふつうに」だ。
まず、「ふつう」の従来からの意味をおさらいしておくと
特別ではなく一般的である、どこにでもある、めずらしくない、それがあたりまえ、etc.
「全然」が
「全然が打ち消しとセットで使うものだから、全然のなかにすでに打ち消しの意味が入っている」
使い方だったのに比べると、
この「ふつうに」は、この表現を使う人と受け取る人の間で、
より高度にコンテクストを共有していないとわかりにくいかもしれない。
私の観察によれば、この「ふつうに」表現には、
「ふつう」でないことがあると思ったのに、案外「ふつう」(一般的で特別なものではない)
という<意外性>が隠れている。
たとえば、「料理は上手じゃないからおいしくないかも」といいながら料理を出したとき、
「ふつうにおいしい」といえば
「誰が食べてもおいしいっていうよ」というようなニュアンス。
私たちが友だちだからそう言ってるんじゃなくて、
出されたら一般的に通用しておいしいよ、
「おいしくない、食べるのが大変」そんな「ふつうじゃない状態」を覚悟して食べたけど、
そんなことない、あたりまえのようにおいしいよ。そんな感想が混じっている。
食べたことのない物で、
ゲテモノ的、珍味系で好き嫌いが分かれるような物かと思ったら、
「ふつうにおいしい」とは、
ゲテモノじゃなくっておおかたの皆にとっておいしい、
特殊なおいしさじゃなくて一般的なおいしさだ、ということだろう。
また、今年の春先、
いつまでも寒くて、桜が咲いてから雪が降るようなことがあって、
それについて「ふつうに雪降ってる」という言い方を見かけた。
おそらく、ここにある<意外性>は、「もう4月だとういうのに、まるで冬であるかのように、それが当たり前であるかのように降っている」ということだ。
ついでに「六本木、ふつうに雨降ってる」てな言い方も見かけるが、
ここにも何らかの意外性があると思われる。
たとえば「予報はもっと遅くに降り出すと言ってたけれどあたかもこういう予定だったかのように降ってる」とか、
「にわか雨程度だと思っていたら本格的に当たり前のように降ってる」など。
これは話者の状況、前後の文脈により、いろいろな可能性が考えられる。
ただ、「ふつうに」を入れているときには、
大なり小なり何らかの<意外性>を話者が感じている、と私は思う。
こうした言い回しの流行り廃りは激しく、
何ヶ月かで、ここに書いたことがまったくあてはまらなくなったり、
別のニュアンスが勝つこともあると思う。
今のところの観察では、こんな風に思う。
そんなメモである。
そりゃ、ちょっと違うでしょ、というご指摘も、ぜひください。