2010年05月21日

「ふつうにおいしい」って?

「ふつう」の使い方がわからない、という意見を方々で目にした。
「ふつうにおいしい」
「ふつうにかわいい」
などの言い方が「ふつうなの? おいしいの? どっちなの?」という反応を生むらしい。

私はこういう言い方が登場して流布するうちに、特に気にならずに見聞きし、
オフィシャルな場面では使わないが、カジュアルな場所・相手には、ときに使っていたと思う。
だから、この「ふつうに」がわからない、という意見を聞いて、
「ああ、なるほど、言われてみれば確かに『ふつう』の用法じゃないよね」と思う。

で、ちょっと考えてみる。
この「ふつう」の使い方って何だろう。

私が思うに、この使い方は、
少し前に注目された「全然おいしい」や「全然かわいい」のアレンジだ。
「全然なのに後に打ち消しがこない、間違っている」
というのがこの表現に対する批判だったと思う。

もちろん公の場面でこの表現を使ったら間違いには違いない。
だが、この表現では「全然」の要素をまったく使っていないのではなくて、
「全然」を使うが故に、言外に打ち消しの要素が入っている。
「全然」は打ち消しとともに使うものだから、打ち消しの意味を込めた言い方なのだ。

たとえば、誰かが料理を作って、
「料理は上手じゃないからおいしくないかも」と
いいながら出したときの感想として「全然おいしい」。
つまり、「そんなことないよ、料理下手じゃないよ、おいしいよ」という意味。

他には、食べたことのない物で、
恐る恐る「まずいかな、食べられるかな」と思いながら口にしたら、
「そんなことない、おいしい!」の意で「全然おいしい」。

この言い方が世の中に広まるにつれて、
その傾向はうすれて単なる強調の言葉のようになっていった面もあるが、
そもそも「全然おいしい」「全然かわいい」といった表現には、
前提として打ち消しの要素があった、と私は考えている。

こういう「全然」に替わって、登場してきたのが「ふつうに」だ。
まず、「ふつう」の従来からの意味をおさらいしておくと
特別ではなく一般的である、どこにでもある、めずらしくない、それがあたりまえ、etc.

「全然」が
「全然が打ち消しとセットで使うものだから、全然のなかにすでに打ち消しの意味が入っている」
使い方だったのに比べると、
この「ふつうに」は、この表現を使う人と受け取る人の間で、
より高度にコンテクストを共有していないとわかりにくいかもしれない。

私の観察によれば、この「ふつうに」表現には、
「ふつう」でないことがあると思ったのに、案外「ふつう」(一般的で特別なものではない)
という<意外性>が隠れている。

たとえば、「料理は上手じゃないからおいしくないかも」といいながら料理を出したとき、
「ふつうにおいしい」といえば
「誰が食べてもおいしいっていうよ」というようなニュアンス。
私たちが友だちだからそう言ってるんじゃなくて、
出されたら一般的に通用しておいしいよ、
「おいしくない、食べるのが大変」そんな「ふつうじゃない状態」を覚悟して食べたけど、
そんなことない、あたりまえのようにおいしいよ。そんな感想が混じっている。

食べたことのない物で、
ゲテモノ的、珍味系で好き嫌いが分かれるような物かと思ったら、
「ふつうにおいしい」とは、
ゲテモノじゃなくっておおかたの皆にとっておいしい、
特殊なおいしさじゃなくて一般的なおいしさだ、ということだろう。

また、今年の春先、
いつまでも寒くて、桜が咲いてから雪が降るようなことがあって、
それについて「ふつうに雪降ってる」という言い方を見かけた。
おそらく、ここにある<意外性>は、「もう4月だとういうのに、まるで冬であるかのように、それが当たり前であるかのように降っている」ということだ。

ついでに「六本木、ふつうに雨降ってる」てな言い方も見かけるが、
ここにも何らかの意外性があると思われる。
たとえば「予報はもっと遅くに降り出すと言ってたけれどあたかもこういう予定だったかのように降ってる」とか、
「にわか雨程度だと思っていたら本格的に当たり前のように降ってる」など。
これは話者の状況、前後の文脈により、いろいろな可能性が考えられる。
ただ、「ふつうに」を入れているときには、
大なり小なり何らかの<意外性>を話者が感じている、と私は思う。

こうした言い回しの流行り廃りは激しく、
何ヶ月かで、ここに書いたことがまったくあてはまらなくなったり、
別のニュアンスが勝つこともあると思う。
今のところの観察では、こんな風に思う。
そんなメモである。
そりゃ、ちょっと違うでしょ、というご指摘も、ぜひください。







posted by chiyo at 00:20| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月11日

totoの理念を伝えるには。あるいは「育てる」という言葉のオールマイティ

Jリーグ中継を見ていたら、
ピッチまわりの広告「スポーツは、育てるものだと思います」という文字が目に入った。
「聞き覚えあるけれど、なんだったけか?」
後で調べてみると、totoの広告だった。

こことかこことかに書いてあることをまとめてみると、
totoは、サッカーくじ、6億円といったイメージは定着したけれど、
収益金で学校のグラウンドの芝生化、地域のスポーツクラブの支援などを
行っていることは周知されていないから、
それを知ってもらうためのキャンペーンコピーのようだ。

そうしたいまいち知られていないtotoの事業理念を伝える人として
元サッカー日本代表監督のオシム氏を選び、彼からの「メッセージ」が、
「スポーツは、育てるものだと思います」なのだ。
その意味は、要約してみると、
「スポーツは、体力や精神力、社会で必要な忍耐力や協調性を育てる。
そして、そのスポーツは、人が育てる必要がある」

んー、totoのことは何にも言ってない。
理念自体は素晴らしいと思うけれど、
当初の目的である
「totoの収益金がスポーツを育てることに役立っていることのアピール」
にはなっていない。
そのメッセージコピーを見た私たちがどうしたらいいのか、
何を考えたらいいのか、もわからない。

スポーツは人を育て、人がスポーツを育てる、という
美しい理念のすべてを伝えたくなって、あれもこれも言いたくて、
つまりは、ああもとれる、こうもとれる、「含蓄」のある言葉を選び、
結局、ぼんやりした言いたいことのわからないフレーズだけが横断幕として宙に浮いている。

比較する必然性はまったくないのだけれど、
たまたま何となく似たコピーだったから引いてみる。

「観ることが、育てること」
これは、劇作家の平田オリザ氏が主催する「こまばアゴラ劇場」の
「劇場支援会員」
募集のためのコピーだ。
理念はわりに似ていて、このコピーで言いたいことがはっきりしている。
会員になって(年間1万円で7枚鑑賞チケットがもらえる)
演劇をたくさん観て育ててね、と言っているわけだ。

いい考えがあるときには、ついついいろんなことを詰め込みたくなるけれど、
そのメッセージを受け取る人は、概してそんなにヒマじゃない。
他人の考えを受け取る準備が常にできている人なんてほとんどいない。
だから、下品にならない程度にわかりやすく、メッセージは発信した方がよくて、
そのためには、素敵な考えや美しい理念や涙のサイドストーリーがどんなにあっても、
それらを伝える量が減ること覚悟で、言いたい内容は絞らなきゃならない。と、私は思う。
totoのメッセージを作った人は、そこまで考えなかったのかなぁ。
いろんな人が関わって、アピールの場所も機会もあって、ちょっともったいないな。


@@@@
この2つのコピーを見て、ふと思ったのは、
「育てる」て言葉はずいぶん「いい言葉」だな、ということ。
大きくなっていく、ポジティブのイメージが中心にあって、
だからといって「成長する」のように「企業の成長」というような場合の「計算高さ」がなく、
「無償の行為」の真面目さ・誠実さが感じられる。

意識を育てる、街を育てる、などなど、比喩的にも使いやすくて、
直接・間接にも「育てる」行為をまったくしない業界というのもないから、
「育てる」とは一見関係なさそうなところで、
PRコピーに使うと、よさそうな言葉じゃないかな。




posted by chiyo at 16:20| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月09日

当落の落差

チケットぴあの会員先行予約を申し込んでたら、
結果通知がきた。
この通知メール、昔から違和感があるのだけれども。

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「ザ・ダイバー」 日本バージョン〔東京〕
エントリー方式:希望順位エントリー
<第1希望> ご用意できませんでした
<第2希望> ご用意できませんでした
<第3希望> 当選

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なんで、落選、落選、当選、じゃいかんのかなあ。

「落選」だとぶっきらぼうだから、ちょっとていねいに、
申し訳なさを出してみている、んだろうけれど、
だったら、当選の方も
「当選とさせていただきました」(笑)とか
電話予約のときみたいに
「お席のご用意ができました」とか、
ある程度対になるような文句じゃないと、
なんだか座りが悪いじゃないか。

落選は後ろめたいから、しゅんとした感じを出しておくけれど、
当選したヤツは、当選してんだからどう伝えようが文句ないだろうよ、
てなコミュニケーションにおける油断が見える気がして、
どうも気持ちが悪い。

目くじらたてることでもないけれど、
そういうところで案外、真意が見えたりして、なんてことも思う。
考えすぎかな。

posted by chiyo at 16:18| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月01日

「日本のWebは残念」と言った場合の「残念」の意味は?

ここ1年くらいだろうか。もっと前からだろうか。
「残念」という言葉が、今までとちょっと違う意味合いで使われることがある。

「期待はずれな感じ」や「あー、なんだかなあ、とほほ」(とほほって言い方も古いが!)、
ていう脱力を伴った「がっかりなもの」を表すときに「残念」という言い方をする。
芸人さんがだめな人をからかうのにも使って、私が思い出すところでは「千原兄弟」の兄・せいじの方が、ジュニアのキレに比べて、なんだかパッとしないキャラであることを「千原兄弟の残念な兄」と表現されていた。
アイドル好きの人は、外見はいいのに中身がどうしようもなく天然だと「残念な子」という言い方をするらしい。実際に使われているところを見たり聞いたりしたことはないのだけれど。

「残念」というのは、もともと、すでに完了したもの、状況が続いていてもある時間で一度完了しているとして区切った状況や出来事に対して、希望通りではない結果になってしまって、「心残りだ」と表現する言葉で、人やあるものの性質全体について形容すると、目の前にいるものを「もう終わった」と表しているようなもので、言葉の使い方としてミスマッチなのだ。
だからこそ、「残念な誰々」という表現は、(たとえば「終わってる」と)相手を揶揄する意味を持ち、ミスマッチゆえに面白さが生まれるのだと思う。

で。
一月くらい前から物議を醸しているらしい梅田望夫氏の、日本のWebは「残念」発言。
私はいわゆるウェブ社会のことはよく知らないし、梅田さんの考えや、それに対する様々な人の意見の細かいところは置いておく。

このITメディアの記事で、「残念」という言葉が使われているのは、見出しの他は、
リード部分の
・日本のWebが「米国とはずいぶん違うものになっちゃった」と残念がる
というところ、
・倒置法になっているけれど、「英語圏のネット空間と日本語圏のネット空間がずいぶん違う物になっちゃったなと。」残念に思っている。
・“上の人”が隠れて表に出てこない、という日本の現実に対して残念だという思いはある
という3箇所だ。

インタビューを文章にする場合、言った通りの表現で書くことはまずないので、梅田さんが実際にどのように言葉を選んだのかは、こちらではわからない。
ただ、梅田さんが話していることとして出てくる「残念」は、今までのところの日本社会や日本のウェブのある具体的な状況・出来事について、「残念だ」という意味で、昔から使われている「残念」と同じ意味だ。

しかし、見出しになった 日本のWebは「残念」 という言い方は、日本のWeb界の個々の出来事に対して表する言い方ではなく、日本のWebというものの性質そのものを「残念」と形容する、揶揄した流行りの言い方である「残念」の方だ。


この梅田さんの発言に、多くの人がショックを受けて感情的な反応すら呼んだのは、ある部分はこの見出しのせいじゃないかと思う。
ひょっとしたら、見出しのような言い方を梅田さん本人がしたのかもしれないけれど、可能性としては低いと思う。
「残念」という言葉がインタビューの中で多く使われたので、書く人がそれを短く見出しにしてまとめたら、今の日本の言語環境では意味合いが違ってしまった、てところじゃないだろうか。

この見出しに、「日本のWeb」が揶揄されたように、不当におとしめられたように感じる人がいて、強い拒否反応があったのだろう。
だから、「梅田、お前のが残念」とか「そんなことよりはてぶのが残念」だとか、「残念」という言葉を使った罵倒し合いのような、見出しリンクが世に飛び交うことになった、と考えられる。

もちろん、もっと冷静に議論している人もたくさんいるだろうが、ここではそういう話はしない。
ただ、門外漢としてこの記事を読むと、たぶん、そういう言葉の使い方に特に敏感じゃない人が書いたから(見出しをつけたから)、意図しないまま結果的に扇情的になってしまった、そんな風に思うのだ。
posted by chiyo at 01:53| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月11日

駆けつけるのは、誰?

消防や警察は、なぜだか決まって「駆けつける」。
きっとその現場に取材に行くマスコミの人たちもきっと「駆けつける」んだろうなあ。

さっきACL(アジアのNo.1サッカーチームを決める大会)の中継を見ていたら、
「平日の夜にもかかわらず、大勢のサポーターがスタジアムに駆けつけました」
とアナウンサーが言っていた。

「駆けつける」っていうのは、急いで行くっていう意味じゃなくって、
「馳せ参じる」に似て、その行く現場に対し情熱を持っているっていう
ニュアンスが込められるんだろう。

勘違いかもしれないけれど、
巨人ファンが東京ドームに「駆けつけ」たり、
朝青龍びいきが両国国技館に「駆けつけ」たりは、
あんまりしないような気がする。

駆けつけられるのは誰なんだろう?
今度、暇なとき、考えてみよ。
いや、そういう考えごとは、忙しいときのが、はかどるかも。

posted by chiyo at 23:36| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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